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高山村指定の文化財
村指定の文化財は、どれもが村の先人たちが時代の様々な環境変化の中で残し、伝えてきた文化遺産です。その中の一部をここで紹介します。

三島神社の太々神楽三島神社の太々神楽(だいだいかぐら)
三島神社の神楽は、江戸時代中期の享保7年(1722年)より現在に至っています。流派は江戸流で、中山神社祭典・三島神社祭典において奉納されています。

昭和40年(1965年)6月1日、社殿と太々神楽は村の文化財に指定されました。神社参道の杉並木は、県指定天然記念物です。

尻高神社の太々神楽 尻高神社の太々神楽
慶応年間、尻高全域の寄付金により太々神楽用具が購入され、太々神楽が奉納されました。
その後幾たびか放置されましたが、その都度有志により後をつがれ、尻高神社太々神楽として現在に至っています。

昭和40年(1965年)6月1日、村の文化財に指定されました。
【神楽の起源】
太陽神である天照大神(おまてらすおおみかみ)は、弟の須佐之男尊(すさのおのみこと)の粗暴な振る舞いを怒って、天岩屋戸(あまのいわとや)に隠れてしまい、世の中は真っ暗闇になりました。困った神々は協議して、岩戸の前でかがり火をたき、長なき鳥を鳴かせ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりして舞いました。この時の舞いが、神楽の起源と言われています。



役原獅子舞役原獅子舞
役原獅子は、室町時代に尻高氏が役原に城を築き、付近一帯を支配したとき、これは崇敬している信州諏訪神社の加護によるものと考え、諏訪神社を建立し、遠州流獅子舞を招いたのが起源です。今の獅子頭は徳川末期の弘化3年(1846年)に作られたものです。
獅子舞は大太鼓をつけた頭、笛吹三人、万燈及び太鼓を持った三人の獅子(これを先獅子、中獅子、後獅子とよび、中獅子は牝獅子といわれています)、それに「ささら」という竹の楽器をもった踊り子を各獅子に組ませ、舞を賑やかにしています。昔はそれに「ひょっとこ」と「おかめ」の面をつけた二人が舞の間合 いを踊りつないで、獅子舞を更に賑やかにしていました。
昭和40年(1965年)6月1日、村の文化財に指定されました。



中山城址
中山城址この城は、鎌倉時代初期に武蔵国児玉党の阿佐見実高が築城したもので、代々中山氏と称し、17代約380年、この地を治めました。戦国時代、天正10年(1582年)に城主中山勘解由は白井長尾氏と戦って戦死し、同年廃城に。東西126メートル、南北125メートル、深さ9メートルの土濠をめぐらし、本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、北曲輪を備えた壮大な城でした。
平成元年(1989年)11月30日、村の文化財に指定されました。



尻高城址
尻高城址この城は、古屋の要害城と並木の里城からなっています。築城は室町時代、応永8年(1401年)に白井城主長尾重国の三男重儀によって築かれました。重儀は尻高氏を名乗り、左馬頭と号しました。戦国時代、永禄2年(1559年)重治の時、武田信玄によって子の景家と共に戦死。景家の子義隆は上杉氏に属し、天正8年(1580年)割腹。天正9年尻高氏は滅亡しました。
平成元年(1989年)11月30日、村の文化財に指定されました。



観音山の摩崖仏(百観音)
摩崖仏本宿の観音山の中腹の垂直な岩面に多数の仏像が彫られています。正確な数は不明ですが、99体が確認されており、観音像・地蔵尊像・不動尊・馬頭観音像がみられます。
言い伝えによると、寛延年間に流浪の石工某が中山宿の問屋平形家へ食客として仮泊し、問屋の墓碑や近隣の家々の墓標を請われるままに刻んでいました。仕事のない時は、中山宿法信寺裏山の岩山に登り、夕方帰って来ていました。
平形氏が後日これに気づき、岩山に登ってみると、岩という岩に観音像・地蔵尊像・不動尊像などが刻んであり、牛馬の為の馬頭観音像もありました。
村人はこれを「百観音」と称しました。岩の根腰に観音堂があることから付いた名称かどうかは不明です。
岩場下の「奉読誦妙法華経一千部供養塔」や「為牛馬、善趣也、信州小河内村石屋甚四良」と刻まれている仏像から、寛延年間の信州小河内村石屋甚四良の作と考えられます。
昭和52年(1977年)10月1日、村の文化財に指定されました。



添うが森・添わずが森
平安時代中期のお話です。天慶(てんぎょう)の乱で、平将門(たいらのまさかど)の征伐のため東国に下った小野好古(おののよしふる)の家臣小野俊明(おののとしあき)は、日頃恋い慕う「あわび姫」の色香に迷い、出陣の機を失いました。その罪悪感から出家して、名を熱退(又は祢津太江)と改め、尻高の龍海山泉照寺の住職となりました。
天慶7年(944年)8月、あわび姫が一子小太郎を伴い、熱退を慕ってはるばる訪ねて来ました。しかし、熱退は二人に会わず、あわび姫に一首の歌を送りました。
  『美しき花に一足踏み迷い 出家の道をかがやきにけり

あわび姫は身を悲しんで、小太郎と共に河水に身を沈めた際に、一首の歌を遺しました。
  『半形(はんぎょう)となるもあわびの片思ひ 未来は深く添ふが森せぬ』
村の人はその母子を哀れんで亡き骨を葬り、これを「鳥見塚(とりみづか)」といいました。
いつしか、この塚に恋の願いを掛けると必ず叶うという話が広まり、「添うが森」と呼ばれるようになりました。

天延3年(975年)、熱退和尚は病に倒れ、「吾死なば鳥見塚の相向かいに埋めよ」と遺言し、一首の歌を遺して亡くなりました。
  『身を思へば 世に名を汚す人々の 迷ひの花を 散らしけるらむ』
村の人々は遺言に従ってその地に葬り、「熱退の塚」と名づけました。熱退の亡霊が悪縁を切れない人の夢枕に立ち、「吾れを信ずれば必ず縁を切らせるであろう」と言ったことから、この塚は「添わずが森」と呼ばれるようになりました。
  「かがやく」とは、この地方の言葉で、「探し求める」ことを言う。

平成26年(2014年)1月17日、村の文化財に指定されました。


文化財についてのお問い合わせ 高山村役場 教育委員会 電話:0279-63-3046
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